千年の黙―異本源氏物語

千年の黙―異本源氏物語

 とりあえず今年読んだ本の中では暫定1位ということで。
 紫式部と彼女につかえる少女あてき(後の名は小少将)を主人公に据えた歴史ミステリ。日常の謎を散りばめながら,『源氏物語』から消えたとされる一編「かかやく日の宮」という古典文学上の謎に迫る構成が激しくツボ。『源氏物語』自体は現代語訳及び原文で一度づつ読んだくらいで嗜み程度の知識しか持っていなかったのだけど,そのことが悔やまれます。もっと深い知識を有していたならば,より楽しむことが出来たのかな,と。ただし,文章自体は平易でかつ丁寧なので,『源氏物語』に対する知識は必ずしも前提とはならないかと思います。平安朝に関する最低限の知識は求められるでしょうけれど。
 謎自体が魅力的なのもさることながら,とにかく人物描写が好み。紫式部*1や小少将,あるいはいぬき(後の名は小侍従),岩丸(後の名は源義清)はもちろんのこと,時の左大臣藤原道長中宮彰子,中宮定子といった人物が生き生きと描かれています。個人的には小少将や紫式部ももちろん好きなんだけど,何よりも中宮彰子がお気に入り。これまで僕の中では記号でしかなかった中宮彰子という人物に魂が吹き込まれたかのような感覚さえ覚えました。司馬遼太郎燃えよ剣』の土方歳三が僕の中での土方歳三であるように,この『千年の黙』での中宮彰子が僕の中での中宮彰子となっていくのでしょう。折々に同時代の人物−清少納言藤原実資−の言葉に触れるのもまた心憎い。特に第一部「上にさぶらふ御猫」の題名は清少納言枕草子』からの引用となっています。
 三部構成とはなっているものの連作短編集ではなく,長編と見るのが正しい見方。第三部「雲隠」にて,それまでに留保されていた謎が完全に解き明かされます。第一部から第三部までの時間の流れはあまりにも残酷で,『源氏物語』に関わった人々の運命は流転します。感情移入してしまった故に辛い描写もあるけれど,それでもまたその点が本作をただの歴史ミステリに終わらせていないのかな,と。
 何はともあれ大満足の作品でした。次回作を執筆中との話も聞いていますが楽しみな反面,ちょっと不安でもあります。この作品だけで既に完結してしまっているので,これに付け加えるのは蛇足になってしまわないかな,と。

*1:ただし作中ではこの名前で呼ばれることは殆どありませんが